こんにちは。
牧会計事務所のお局事務員です。
春うらら♪♪個人的には花粉がピークを越えて、少し目と鼻が楽になってきた事もあって、お局が待ちに待った遊びのシーズン到来です♪
今年はコロナも落ち着き大阪造幣局の桜の通り抜けも完全復活した感じで、有給を頂いて大阪で花見見物をして来ました。
特に今年は紙幣のデザインが変更もあるし、株価も最高値更新していて「お金ブーム」を感じています☆
(ただ、大阪造幣局は硬貨しか作られていないのですが・・・)
そこで今年は何故通り抜けが始まったのか・・・その歴史を紐解いてみたいなと思います。
(令和6年の通り抜けは4月5日~4月11日でした)
*令和6年の桜は141品種340本です。 今年の花は、昨年の来場者による人気投票で選ばれた「大手毬(おおてまり)」だそうです。そんなに桜の種類があったんだぁ・・・お局は数種類しか知りませんでした。
造幣局の通り抜けの歴史は明治16年、時の遠藤謹助造幣局長の「市民とともに楽しもうではないか」との提案により構内の桜が一般開放されたのが始まりだそうです。
江戸時代、旧藤堂藩蔵屋敷で里桜を育成しており、造幣局は敷地と共にその桜を受け継いだと言われています。
通り抜け通路は当初約1kmあったそうですが、明治31年に約560mに短縮され、明治42年時点で18品種287本、品種は一重の「芝山」が半数を占めていたようです。
大正に入ると来場者も増え、同6年には戦前最高の約70万人を集める程になりました。当時は重工業の発展期で、煤煙で桜が枯死する事態も起こっています。「芝山」が半減し、一重八重の「御車返」が主流を占めるようになったようですが、その後これも激減するなど、品種の変遷が激しかったのが大正時代でした。文明開化の中、大気汚染に弱い桜樹の維持管理も大変だったようです。
昭和時代は第2次世界大戦中の昭和17年には空襲警報発令により通り抜けは開催期間途中で中止さてしまい、昭和20年6月の大空襲では約500本中300本の桜が焼失してしまう不幸に見舞われましたが、復活に向けた努力が行われ、昭和22年に再開されるに至り毎ました。。順次桜樹の補充も行われ、昭和26年には夜間開放も始まっています。
昭和30年代中頃には工業復興に伴い再び大気汚染の問題が持ち上がりました。現在主流を占める八重の「関山」は、この頃から本数が急増していて、ソメイヨシノよりも強健な性質を持っていて、病害虫にも強いようですが、寿命はあまり長くないようです。
地球温暖化も進み、桜にとっても生きづらい世界になってしまうかもしれませんが、少しでも長い年月花を咲かせてくれると良いなと思うお局なのでした。